あくてえとは、悪態や悪口といった意味の甲州弁。
それが題名になっちゃうくらい、「あくてえ」をつき続けないとやってられない小説。
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登場人物が、腹立つ
主人公は、働きながら母&父方の祖母と三人暮らしをしている19歳の「あたし」。
90歳のばあちゃんは認知症ではないが、大声で甲州弁をがなりたててワガママ放題。
作中で病気もするし骨折もする。助けが必要なのに、感謝なんてもちろんしない。悪口を言い、欲のままに生きる。
ヤバい。
主人公はそんなばあちゃんに「あくてえ」をつきまくり裏では「ばばあ」と呼ぶが、きいちゃん(母)は かいがいしく世話を焼き、我慢して頑張りすぎて倒れてしまう。
そもそもばあちゃんはきいちゃんの母じゃない。
「あたし」の親父は他の女と子ども作って出てっちゃって、ばあちゃんの世話は元嫁きいちゃんに任せっきり!悪びれるそぶりは微塵もない。こいつはヤバい。特にヤバい。
「あたし」は基本的にきいちゃんを助けようとしてるけど、自分では状況を改善するための抗議や主張を一切せず、「あたし」に頼ってくるきいちゃんもけっこうヤバい。
同い年の彼氏も、どこかトンチンカンで、分かったような口きいてきて、ヤバい。
出てくる全員、ヤバいくらいムカつく。イライラしすぎて私の語彙力がない。
ストーリー展開が気になるとかじゃないし、読んでるとこんなにイライラするのに、読み始めたら止まらなくて一晩で読んでしまった。
終わり方も救いがなかった。
なんでこんなにムカつくか
一息に読みたくなるのは作者の文章力。
そして、こんなに生々しく怒りや嫌悪が沸くのは、映像で撮ったものを描写してるみたいにリアルだからだと思う。
自分では実際に体験していなくても、自分の記憶を呼び出して「こういう人いるよね、こういう瞬間あるよね」と感じてしまうのだ。
作中に、食べ終わった茶碗にお茶を入れて、意地汚く食べるばばあに「あたし」が嫌悪感を抱く場面がある。
行儀やマナーの問題ではなく、理性より先に欲が勝る感じが、人間の本質を見ている気がして怖いのだ。
『あくてえ』山下 紘加著、 河出書房新社 p30
昔、自分が介護施設で働いていた時にもそういう人いたし、身内が大病をした後もこうだった。
食事が出てくると、周りが誰も箸をつけていなくてもすごい勢いで食べ始める。周りが見えてないから盛大に食べこぼし口の周りを汚しながら、デカい声で自分の思ったことを話す。
嫌だ。身内だと余計体がゾワゾワするくらい嫌だ。
うちの場合は体調が良くなるにつれて、こぼすのが恥ずかしいのかあまり人前で食べたがらなくなった。
作中のばあちゃんも昔はこんなことしなかった。年々理性とか客観性とかが薄れてしまうのだろうか。
怒鳴っても、足掻いても、誰も変わらない無力感。
何もいい方向に進んでいかない焦燥感。
それなのに、目の前にするとどうしても言い募ってしまうむなしさ。
「あたし」もばばあと離れると優しくしなければと思う。でも、できない。
私がばばあになっても
今はかろうじて19歳の主人公に近い目線で読んでいたけど、20年後にはきいちゃんに感情移入するだろうか?
自分が90になってこの小説を読んだらどんな気がするだろうか?
「あたし」が生活費のために仕事をかけもちして稼いだお金を無断で財布から抜いて、「4歳の孫(父が浮気して作った子)にゲームを買ってやりたかった」と言う気持ちが分かるようになるのだろうか?
こんなばばあにはなりたくない。。